新渡戸傳翁と三本木原開拓


「南部の地は、広大無辺にして何れの国と言えどもこの地の広さに比すべき所なし。特に、七戸の辺りに三本木原と言う野原あり。唯平々たる芝原にて四方目にさわるものなし。東西凡そ二日程、南北半日程ありと言う。その間に人家もなく樹木も一本も見えず、実に無益の野原なり。」(橘南渓の『東遊記』より)


この地方の昔唄に、「寒い寒いと、三本木原ッコ寒い 二度と行くでない 三本木原ッコさ」広漠たる三本木原は、人の住まぬ狐狸の巣窟であったと言う。

新渡戸傳(「武士道」の著者、国際連盟事務次長として世界的に知られた新渡戸稲造の祖父)は、安政二年(一八五五年)三本木原開墾に着手。

最も困難を極めた、奥入瀬川から三本木台地への上水は、安政六年五月四日遂に通水し。傳の意志は息子十次郎へ受け継がれ京都の条里制にならい、道を碁盤の目状に配した近代都市基盤の構築した。

明治三十年植民募集の計画を立て、最初の入植は福島県よりの二十五戸であった。この不毛の地と言われた原野、度重なる冷害・凶作、そして戦争。入植した人々の風俗習慣の違いと貧困。こうした中近隣の方々の保護・援助・指導・励ましを戴きながら、不撓不屈の精神でたゆまざる努力によって今日の繁栄を築くに至った。

その三本木には昔より寺がなくずっと不便を強いられてきた。多年にわたり十和田市農業委員会長、十和田市納税貯蓄連合会役員会長、十和田市議会議員と多岐にわたる活躍をした、開基 苫米地眞宗氏は、「私が五歳の時、母と祖母を亡くし、その後の母も十五歳の時に逝った。母や肉親への思慕の情は抑えようもなかった。昭和十三年に、私は近衛歩兵第一聯隊に入隊した。南支那方面では多くの戦友の死傷に遭遇し、私も負傷して野戦病院に収容され、そんな中でもし生還できたら亡き母たちや幼くして逝った妹や、戦友たちの御霊を供養しようと心に誓った。」と綴っている。

寺院建立発起人委員会を立ち上げ多くの人達の努力の末、住職を五戸町高雲寺住職村松幸榮老師へお願いし。昭和六十年十二月二十日に念願の宗教法人観音寺を設立。昭和六十二年九月三十日現住職前田憲良和尚へと引き継がれ事実上の開山の苦労の末、現在に至る。

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写真 : 奥入瀬渓流


 

年表

→ 昭和62年
観音寺二世 前田憲良 就任

→ 平成9年
位牌堂、書院、庫裡他増改築

→ 平成16年
観音寺二世 前田憲良 晋山・結制式

→ 平成16年
山門・鐘楼堂落慶


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